東西連盟大相撲

東京・大阪の両相撲協会が合併するにあたり、実力・資格の審査のため大日本相撲聯盟を結成し、関西で計3回「聯盟大相撲」が開催された。

これにより両協会の解体後に、日本大角力協会を発足させる番付を編成することとなる重要なものであった。

第1回は大正14年11月京都、2回は大正15年3月大阪、3回は大正15年10月大阪で開催された。

規定により第1回は無番付、第2回は前回の成績により仮番付、3回はその成績に準拠し本番付を発行した。

結果は大坂方にとって厳しいもので第3回興行で大坂方幕内で東京に残った力士は6人であった。賜杯も授与され以降の関西本場所の先駆けとなった。


第1回聯盟興行

大正14年11月14日より10日間、京都市八坂新道にて草風滝五郎(京都の顔役)を勧進元とした興行。大正14夏の番付を基に取組が編成された。

規則を改正し、引分、預かりの取り直し制度を適用した。

大阪力士は横綱宮城山、大関若木戸、錦城山、荒熊以下幕内が30名、本興行の参加は22名だった。

錦城山が9日目から出場し2勝、9日目に常の花を破る殊勲、前頭7枚目の片ノ濱が5勝5敗の5分以外は全員負け越しの不成績で宮城山も3勝5敗2休だった。

栃木山は大正14夏限りで引退したが土俵入りのみ務める。

幕内は福柳、吉の山が9勝1敗。十両は玉錦、岩見嶽が隔日出場で5勝。福柳、玉錦が優勝相当となった。


第2回聯盟興行

大正15年3月12日より11日間、大阪市北区扇町での興行。合同の順席を発表し、大坂方幕内中三役力士は幕内にとどまったが、平幕は片の濱、真鶴、時潮、剣山のみで、他は十両格に陥落された。しかも横綱宮城山の地位は据え置かれたが、錦城山を前頭筆頭にした以外他の10力士は幕尻に編入された。

これに対し、大坂方の後援者が憤慨したこともあり、不入りであった。

「不戦勝」制度を東西対抗の得点に関係する10日目以降の幕内に適用した。

東西対抗東92対西105で西方が優勝し千秋楽西ノ海vs常ノ花の決戦で西ノ海が勝利し10勝1敗、上位優先により西ノ海が優勝。賜杯も授与されたが公式の優勝記録から除外されている。※1

十両は鬼風、晴ノ海、玉碇が6勝1敗、最上位の鬼風が優勝相当。大坂方は荒熊が8勝3敗、真鶴と桂川5勝5敗1分で宮城山は2勝3敗6休、錦城山は2連敗で休場となった。


第3回聯盟興行

大正15年10月7日より大阪市上本町で11日間の興行。営業成績は前回よりも悪かった。幕内45名、十両30名で大坂方の旧三役はほぼ十両陥落、幕内は宮城山、荒熊、錦城山、真鶴、桂川、千歳川の6力士にとどまった。しかし荒熊、錦城山、千年川の3力士は全休し、宮城山は6勝2敗から休場、真鶴も6勝2敗1休、桂川のみ皆勤で4勝7敗だった。当時の新聞では「聯盟とは羊頭狗肉。実質は東京相撲の巡業」と批判された。しかし真鶴は常陸岩、福柳、玉錦らを倒し7日目で6勝1敗。外ヶ濱、常ノ花に連敗して休場したが最も健闘した。

常の花が11戦全勝で賜杯拝戴。大坂時事新報社から銀杯、写真額目録も授与された。(優勝額の掲揚は実現せず不渡り)

十両は信夫山が9勝1敗1休で最優秀、東西は東57vs西96で西方の優勝、旗手は錦洋となった。

第3回番付

※ 優勝賜杯の授与が直前の大正15年1月から開始のため、規約に不備があり授与したものとみられる。

参考

大相撲画報 大相撲太平記 昭和34年~35年

雑誌相撲 昭和56年12月号 しつぎおうとう

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