国分け大相撲

大正11年3月17日から10日間、大阪国技館で開かれたもの。

大正期に入ると大阪相撲は衰退が著しく、東京相撲との合併興行で命脈を保っていた。しかし実力差も開く一方で7:3の実力比と言われたが、152対25で大敗したこともあり(大正2年2月)、対抗相撲の体をなさず改革が迫られていた。そこで生み出した案が京阪同士の対戦ではなく出身地によって関東vs関西で対抗相撲とするものだった。

士気のため優勝旗に合わせ千円の賞金を授与とした。開催前より出羽海部屋の大錦vs栃木山、栃木山vs常ノ花といった同部屋対戦が興味を呼んだ。

やはり初日より大錦、栃木山、常ノ花の同門トリオが群を抜き、宮城山も東京力士を向こうに回して奮闘(関西軍は大坂が多いがあえて東京力士を当てた)、4日目源氏山と熱戦の末敗れ、8日目常ノ花を追い込みながらもはたき込みで惜敗したが称えられた。

8日目終了時点で栃木山7勝1休、大錦7勝1敗、常ノ花7勝1敗と三人に絞られた。対抗戦も関東軍が断然リードした。

9日目の大錦vs栃木山、大錦頭からぶちかましたが栃木山は受け止め激しい突っ張り合いに。栃攻勢になるも大錦突き返し押し返す。栃木山左のど輪、右筈押しで押しまくると大錦土俵に詰まり、回り込もうとしたが栃木山右からすくい上げるように突くと大錦土俵を割った。栃木山は地元の大錦に花を持たせるのではないかと言われたが、気迫に満ちた一番となった。

栃木山が9勝1休で優勝し、団体戦も関東軍が175対127で優勝し旗手は若葉山。栃木山は賞金千円を郷里に寄付した。

京阪の実力差は甚だしく東京十両でも大阪幕内より上位で圧勝も当然となった。関東軍の得点の87%は東京力士で、関西軍も61%をたたき出した。大阪力士は勝越しわずか2名であった。

関東軍 関西軍
横綱 栃木山


















9勝1休 横綱 大錦
×




















7勝2敗1分
大関 千葉ヶ崎




















6勝4敗 大関 常ノ花




















7勝3敗
関脇 若葉山














源氏山

常の花

平錦

8勝2敗 大関 源氏山




















7勝3敗
大ノ里 4勝6敗 大門岩 4勝6敗
紅葉川 6勝4敗 矢筈山 5勝5敗
清瀬川 8勝2敗 福柳 7勝3敗
琴ヶ浦 5勝5敗 鶴ヶ濱 1勝1敗8休
浦風 6勝4敗 九州山 4勝6敗
光風 7勝3敗 友ノ浦 4勝3敗3休
綾錦 6勝4敗 阿蘇ヶ嶽 7勝3敗
伊吹山 3勝3敗4休 常陸島 6勝4敗
白岩 7勝3敗 若常陸 6勝4敗
十両 釈迦ヶ嶽 5勝4敗1休 高ノ山 5勝5敗
達ノ矢 7勝2敗1休 東雲 6勝3敗1休
綾鬼 8勝1敗1休 大阪 平錦 6勝3敗1休
柏山 7勝3敗 二瀬川 0勝6敗4休
岸ノ松 7勝2敗1休 朝日嶽 2勝8敗
千葉ノ濱 4勝5敗1休 有若 3勝7敗
御西山 3勝6敗1休 大達 2勝8敗
五葉山 3勝6敗1休 若ノ戸 2勝6敗2休
雷ヶ梅 8勝1敗1休 滝ノ海 4勝5敗1休
大阪 宮城山 4勝2敗1分3休 稲ノ花 2勝6敗2休
上州山 3勝6敗1休 梅若 2勝6敗2休
大寒 3勝7敗 桂川 4勝5敗1休
大泉 1勝9敗 初嵐 3勝5敗2休
鳥海 5勝5敗 若木戸 4勝6敗
盛山 3勝7敗 九紋竜 3勝6敗1休
森ヶ嶽 1勝9敗 瀬戸山 4勝6敗

栃木山の1休は3日目鶴ヶ濱の負傷の休場による

関東軍大戸平、両國、宮城山、関西軍司天竜、對馬洋、陣幕、西ノ森は全休。

関東軍は大坂十両力士が3名、関西軍は大坂幕内7名がさらに出場しているがカット。

大正12年の国分け大相撲

参考資料

雑誌相撲 昭和52年5月号 連載「近代相撲誌発掘譚 土俵今昔物語 同部屋同士の対戦」

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